「空」の話の最中に突如「しゃもじ」が登場する。そんな話が、私は好きだ。

空について話をしていたかと思ったら、急にしゃもじについて語りだす。

そんな展開をする話が、私は好きだ。

 

筆者は空について語っている。

ところが急に、「しゃもじ」という単語を、話に登場させる。

読者は意表をつかれる。

まさか空の話で「しゃもじ」が出てくるとは思ってもいなかったからだ。

この著者は頭がおかしいのだろうか。

いっちゃってる。

論理的思考力がまるでないのか。

そんな風に思うかもしれない。

 

しかし「しゃもじ」は、その筆者のとっておきの道具だった。

ぴかぴかに輝いた、立派な道具だった。

しゃもじは空との共通項を少しずつ増やし、話を展開させていく。

読者はその意外性も相まって、その話から離れることが出来ない。

授業中に読んでいることが先生に見つかった学生も、中断することができない。

先生がとことこと歩いてきてその本、あるいは端末が没収されるまで、そのテキストから目が離せない。

電車出勤のサラリーマンは、降りる駅名が聞こえてきても無感心だ。

まるで一駅越そうが二駅越そうが、この話を「今」読むことに比べたら些細なことではない。そう腹を決めているようだ。

そしてその話の最後、「しゃもじ」は巨大化し、空をすくってみせる。

空ががっぽりとえぐられる。

そこで話が終わる。

 

話の中身は何もない。

でも、読者は納得している。

この空の話に登場するのは「しゃもじ」でなくてはならなかったんだと納得している。

それは、より空と関連が深そうな「青」であってもいけなかったし、「雲」であってもいけなかった。

「海」であっても、「山」であっても、「宇宙」であってもいけなかった。

しゃもじは出るべくして出てきたんだな、と、その話は読者に信じ込ませるのだ。

そういう話が、私は好きだ。

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